2021.08.31 (火)
毘沙門天像 院派の作か 批判された論文にも存在意義
若い頃、たいした研究者になれそうはないが、1冊の書物ぐらい残せないか、とは考えた。還暦を過ぎた今、監修した本や共著はあるが、単独の著書を持たないのは汗顔の至りだ。もっとも、学術論文となれば論文モドキも含め数十本は世に問うてきた。
ところで論文というのは、そのときどきにおける自分の精いっぱいの意見を記したものだ。でもその主張が真実とはかぎらない。新しい資料の発見により、かんたんに結論がくつがえることはあるし、他の研究者に主張を認めてもらえる保証もない。ただ、その論文が出たことによって、別の研究者がちがった角度からその問題に取り組んだ結果、新たな真実に到達するということもある。その場合は批判された論文にも存在意義はあったのである。
奈良博所蔵の彫刻に、かつて京都・石清水八幡宮に伝来した毘沙門天像がある。塔と槍状の武器を持ち、腰を左にひねり、右足先を開いて邪鬼を踏むポーズがなかなかカッコいい。
この像についてはこれまで鎌倉時代(13世紀)の慶派仏師の作と考え、そのように解説してきたが、あるとき「慶派ではなく院派の作の可能性はありませんか?」というご指摘を受けた。
そのとき脳裏に浮かんだのは京都・大興寺の十二神将像だ。和歌山県立博物館長の伊東史朗氏の研究により、院敒という仏師が1315年(正和4年)に造ったことがわかっている。かつて存在した前身像の再興という特殊事情はあるようだが、一見するととても鎌倉時代末のものとは思えず、銘記がなければ鎌倉時代前期の慶派の作と言ってしまいそうだ。
奈良博の毘沙門天像もこのたぐいの作であるかもしれない。そういえば鎌倉時代の石清水八幡宮では、文献上、院派の仏師の活動がめだつ。今後、慎重に検討しなければならない問題だろう。
(奈良国立博物館特任研究員 岩田茂樹)
(読売新聞 2021年8月24日掲載)